購入価格 ¥570円(オンライン書店Fujisan)
分厚いCS誌5月号の中ほどに、一本の充実記事が鎮座していた。
「女性レーサー列伝!」である。執筆は「鉄人」小林徹夫氏。かつての日本男子ロードの猛者たちの証言も交え、コンパクトにまとまっていた。さすが月刊サイクルスポーツである。女子ロード草創期に傑出した力をみせた吉田八栄子から、阿部和香子、そしてパルコ・レーシングで活躍した鈴木裕美子など、記憶が鮮やかに蘇ってきた。
1981年、日本で初めて開催された国際女子ロードでいきなり2 位に入賞した21歳の三野(現姓・吉田)八栄子といえば、50歳の現在でも現役をつづける偉大かつ驚異的なフランス人選手、ジャニ・ロンゴと同時代の選手である。結婚と出産で若くして現役を退いたが、すぐに復帰し、1987年頃まで活躍した。1986年の国際サイクルロードレース(ツアー・オブ・ジャパンの前身)東京大会では見事3位に入賞している(と記憶しているがCS誌では87年となっている)。画像左はそのときの吉田八栄子で、マシンはPELOTON。右は女子選手の出走署名板だが、阿部和香子、鈴木裕美子のサインもある。(いずれも筆者撮影)
さて、ここからが本題である。
女子自転車選手として、というよりも傑出したスケート選手だった橋本聖子。心肺機能は平凡だったと、かつてどこかで語っていたが、それが本当だとすると、一流アスリートにまで上り詰めるためには、桁外れの努力と精進が必要だったことは想像に難くない。その橋本も今では自由民主党の国会議員として活躍し、CS誌で連載を持っている。だがしかし、アスリートとしてのすばらしい経歴と経験に期待して連載を見ると、これが期待はずれの連続である。惜しいことに、自民党所属の参議院議員にして外務副大臣である氏の広報ページと化している。八重洲出版が橋本側に原稿料を支払うようなページには見えない。この内容であれば橋本事務所から八重洲出版には出稿料が支払われているのではないか?と勝手な邪推をしたくなる。
以前のレビューで書いたが、橋本聖子と自転車・・・とくれば、
https://cbnanashi.net/cycle/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=3824&forum=84#forumpost5672である。だが、橋本氏がこの件に触れる気配はない。外務副大臣ともなれば立場というものがあるのだろう。天下国家を論じ、時流に乗って未来を語ってこそ有権者の代表。過去のしがらみや苦悩など回顧する価値もないのかも知れない。
代わりに私が勝手に回顧することにする。
鈴木裕美子は日大時代、全日本アマでの優勝などがある。卒業後は、バブル崩壊以前の1980年代において時代の寵児的な色彩を帯びつつある企業だった西武の系列であるパルコに迎え入れられた。パルコの目論見はスポーツと女性の関係性をテーマにする、といった辺りか。鈴木に課された役割は明快だっただろう。スポーツで活躍して輝く女性・・・。パルコがなぜ自転車競技に目を付けたのか、不思議でならないが、「不思議大好き」(CM by西武)なカイシャだったからだろうか。
男子ロードで高橋松吉が出場し45位で完走した1984年のロス五輪から、女子ロードが五輪種目になり、当然、鈴木は代表権を得るものと思われていた。だが、選考会で敗れ、五輪出場は果たされなかった。この時点で、パルコとしての戦略に狂いが生じたと思われる。ロス五輪後、パルコ・レーシングは解散状態となった。だが、鈴木は必死にこらえて頑張り続けた。
そして4年後、1988年のソウル五輪。誰もが認める一流スケート選手である橋本は、五輪代表選考の直前に自転車への挑戦を表明し、マスコミはこの話題に飛びついた。すでにパルコにとってうまみのなくなった鈴木(というより自転車競技)だったが、ソウル五輪の選考会に橋本が参戦することで、パルコとしても、注目されるという意味で、もう一度鈴木に賭けよう、となった(のだろう)。
女子スプリント代表選考会。1km T.T.日本記録保持者であり、さして話題にもならない女子自転車競技界を牽引してきた鈴木は、アスリート橋本聖子との戦いに敗れ、再び、五輪出場を逃した。しかし、丸刈り頭の鈴木は試合後、橋本とは対照的に晴れ晴れしているように見えた。
鈴木は丸刈りだった。とことん地味な女子の自転車競技に橋本が入ってきたその時を狙って、鈴木は丸刈りにすることで話題を提供しようとしたに違いない。長年地道に頑張ってきたからこそ、橋本の参戦は、むしろ嬉しかったのではないか。 短期間ではるか、スケートで基礎体力を十二分につくっている橋本が鈴木に勝つ可能性が高かった。しかし、鈴木は対決ムードを高めるべく、発言し、行動したのだ。鈴木は確かに橋本に負けたが、自転車がメジャーになる可能性に賭けたといってもいいだろう。
だが、ソウル五輪が終わり、自転車への注目度合いもすぐに元に戻った。マスコミの注目の仕方、すなわちマスコミによる扱いの流儀は、今も昔も不変である。ビーチバレー然り。TV報道(・・・困ったことにBGM付きで面白おかしく伝える類しかないので、「報道」ではなく、「バラエティ番組」と書くべきだが)は試合を伝えるのではなく、浅尾美和を伝える。ゴルフ然り・・・。そんな中、鈴木はと言えば、その後も現役を続行し、1998年頃まで走り続けている。
鈴木はソウルの4年後、ロード代表で1992年、バルセロナ五輪に出場を果たす。これには、自転車競技界の今野三兄弟(3Rensho の今野義、CHERUBIMの今野仁、MIYUKIの今野信)の今野信氏の渾身のコーチングの賜物である。解散状態だったパルコ・レーシングには、すでに環境はなく、意を決して、今野信が主宰するチームで男子と混ざって、楽しくも厳しい駆け引きのロード走法を体得した結果である。10歳以上年上のコーチの信氏は後に鈴木の夫になる。
・・・バルセロナの4年前の1988年、ソウル五輪代表選考会で代表の座を勝ち取った橋本聖子は、カミソリの刃が入った封筒が送られるなど、小心かつ品性下劣なヤツからの脅迫じみた目に遭っていたと伝えられる。涙を浮かべつつも負けて晴れ晴れ、という表情で、橋本にエールを送った鈴木に対して、それが理由なのかどうか、橋本の表情は硬かったように記憶している。このときの鈴木の態度をテレビで見た全くの自転車門外漢の知人は、「鈴木っていう人はすごく立派だと思った」と語った。
橋本の苦悩は色々な意味で深かったのではないか。そんな橋本を本当の意味で応援したのはアマ車連や取り巻き連中ではなく、実は鈴木だったのではないか。
・・・1992年のバルセロナ五輪選考会でロード代表となった鈴木は記者会見で、ある種、アマ車連に対する批判を展開している。時流を感じ取ったアマ車連の幹部が、太鼓持ちよろしく橋本聖子を持ち上げる発言をするなど、戦略性のない選手育成の手法に嫌気がさしていたのだろう。 橋本なら何でもあり、というアマ車連幹部の姿勢。瀬古なら何でもあり、だったソウルのマラソン代表選考会での陸連の姿勢がダブる(注1)。ただ、橋本が瀬古と違うのは、代表に選ばれて当然の力を備えていたというところだが。
そして橋本聖子。
橋本と自転車の関係を語る上で絶対に避けて通れないソウル五輪代表選考。このことを、通り一遍ではなく、橋本が橋本自身の言葉で語らずして、CS誌の連載で、一体何を語るというのか。外務副大臣である橋本聖子の広報ではない、稀代のアスリート橋本聖子の本当の言葉を、読者は待っている。
* * * * *
(注1) ソウル五輪男子マラソン代表選考は当初、事実上、1987年暮れの福岡国際での一発勝負だった。それを前提とした選手たちの調整、そして報道がなされた。決戦を前にして、「一発勝負で勝てなかったらそれだけの実力だったということ」風な発言をした瀬古自身が、足の故障で欠場した。この時点で瀬古の代表の可能性は消えるはずだったが、「もう一度チャンスをください」という瀬古の懇願に応え、陸連は再度機会を設け、びわ湖毎日マラソンで平凡な記録で優勝した瀬古は、福岡国際で3位の工藤を差し置いて、三人目のソウル五輪の代表になった。孤高のマラソンランナー、中山竹通は 「ぼくなら這ってでも出ますけど」 と記者にコメントしたと伝えられる。その中山は、みぞれまじりの悪コンディションの福岡国際を、怒りを帯びたすさまじいスピードで走り切り、35km地点まで当時の世界最高を上回った。終盤、たたきつける雨に失速したが、日本マラソン史上、圧倒的に最高の走りを見せつけた。瀬古に対する陸連の対応について、評論家の立花隆は「あってはならない」と断じ、TBS夜のニュース番組でスポーツ・キャスターを担当していた元阪神のエース、小林繁は「陸連の判断は当然」と評価した。
価格評価→★★★★★(小林徹夫氏の記事分)
評 価→★★★★★(小林徹夫氏の記事分)