
第三戦はスイス・アマチュア・ステイヤー選手権。ティチーノ出身の選手がこのタイトルを獲るのは初めてのことでした(私は数カ月前、スイスのナショナルジャージを着て表彰式に参加するのを夢で見ていました)。私はウィーンで開かれるトラック世界選手権への参加資格を得ました。その後、チューリヒで開催された六つのステージから成るレースの五つのステージ(残る一ステージは雨のためキャンセル)を走りました。
九つ目のレースで私は元イタリアチャンピオンを打ち負かし、ステイヤー世界選手権への参加資格を得ました。十番目のレースとなったステイヤー世界選手権(1987年ウィーン開催)では、四位フィニッシュ。表彰台は目前でした…
そのウィーン世界選手権での試合の夜のことを、私はまるで昨日のことのように憶えています。私のコンディションはキャリアを通じて最高の状態にありました。レースの中盤で私はすでに、四位でゴールすることになるだろうと予感していました。それはそれで、大変な成績です。しかし、私がその成績で満足してしまったこと、そこで私が諦めてしまい、それ以上は頑張らなかったという事実が、今日でも心残りとなっています。あの日私は、自分が世界の表彰台に上がれるような状態になるにはあと二年くらいかかるだろうと実感させられました。
選手として目覚ましい成長を遂げ、三つのスイスタイトルを獲得したにも関わらず、ストレスと責任感が私を苛み、1988年のヘント世界選手権では5位、1989年のリヨン世界選手権では6位に終わってしまいました。残念ながら、6位で終えたこのレースのほうが、その翌年に私が世界タイトルを獲ったレースよりも人々の記憶に残っているようです。
私は、世界チャンピオンのメダルが獲れないのなら、1990年のシーズンをもって最後にしようと決意しました。それまでの数年間、私は自転車を通じて与えられたもの全てについて幸福でした。そして群馬県前橋市で開催された世界選手権は、私にとって、メダルを獲りに行くレースである以上に、ご褒美的な遠征であり(当時は現在ほど海外に出かけるのは気軽なことではありませんでした)、同時に自転車競技へ別れを告げるものでもありました。最高のコンディションで、あらゆる重圧から自由な精神で、私はフィニッシュ・ラインを超えました。

一つのレースだけでその日ほど消耗しきった日は滅多になかったように思います。しかし精神が自分自身の味方をしていれば、身体も手伝ってくれるものです。50kmの距離を平均76km/h以上で、39分強で走り抜けた結果、銅メダルを与えられました。そして私は「世界選手権のポディウムに立ったティチーノ州初の自転車選手」という記録を打ち立てることができたのでした。
初めてロードレースに勝利した日と同様、私は自転車をバラし終えると泣きはじめてしまいました。ほんの数秒の間に、私が過去14年間に払ってきたあらゆる犠牲、努力、過酷なトレーニングが映画のシーンのように脳裏に浮かび上がりました。泣き終えると、私の人生の新たな決定的瞬間が訪れました。私は気付いたのです。これ以上を求めることはできないのだと。私の人生の一つの章が、まもなく永遠に終わろうとしているのだということを。
あらゆる登山家が目指す頂がエベレストであるなら、私にとっては前橋でのこのレースがまさにそうした頂でした。私は頂上に登りました。そして、そのことに満足しました。とりわけ、その後ハーレンシュタディオン(スイス・チューリッヒの屋内競技場)のディレクター、故ヨーゼフ・ヴォーゲリ氏の助力を得て開始した、私の非常に短いプロ選手としてのキャリアを思い返すと、あれで良かったのだと思います(訳注:筆者は1990-92年までの期間、プロ選手としてロードレースを走った後、完全に引退した)。
勿論、プロの自転車選手であり続けたほうが、より多くの華々しい機会に恵まれたでしょう。しかしその後のプロサイクリングの世界は私にとって道徳的に、かつ倫理的に正しいスポーツとして自転車競技の姿からは大きく異なったものに変貌して行きました。今はただ、私は自転車が私に与えてくれたものに感謝するのみです。
さて、運命が私のために用意した人生のサイクルの一つが、2009年のメンドリージオ世界選手権で閉じられることになります。ここまで読んでいただいた方なら同意してくださることでしょう。1971年のメンドリージオ世界選手権組織委員の息子が、やがてレーサーとなり、そして今度は彼自身が、メンドリージオのロードレース選手権の組織委員になったわけです。
このあたりで筆を置くことにしましょう。私の二人の息子が、ジャージとレーサーパンツ姿で、私がコンピューターのスイッチを切るのを辛抱強く待っています。これから父親と素晴らしいライドに出かけるのを楽しみにしているようです。ことによると、運命は繰り返し、その車輪は回り続けるのかもしれません。(完)

著者 Andrea Bellati氏について
1965年5月29日スイス・ティチーノ州メンドリージオ生まれ。
現Andrea Bellati Sport(ベラチスポーツ)店主。
日本では「ベラチさん」として知られているが現地語読みではベラーチ、ベラーティ。
12歳で初のロードレースに参戦、以後アマチュアロード・トラック競技で活躍後、1990〜1992年まではプロロード選手としてWeinmann - Eddy Merckxで走る。
1993年に自転車通販のベラチスポーツを開業、現在に至る。二児の父。
URL:
http://www.bellatisport.com/◀ 1 | 2 | 3 | 4 ▶