その日以降、常に順風満帆とは行かなかったものの、私は数多くの幸福な記憶を積み重ねることになりました。たとえ小さいものでも何かを成し遂げると、全ての苦労が報われる感じがするのが不思議です。スポーツには一般にこうした傾向がありますが、サイクリングでは特にそれが顕著です。その後の5年間は大した結果を残すことはできませんでしたが、1981年7月、ある日曜の灼熱の午後、私はイゾネで初勝利を飾ることができました。

それはまたしても運命的なものだったのでしょうか、それとも単に私の第六感の問題でしょうか。あの日、階段を下りながら母のワンダに、行ってきます、と言葉をかけた時、その日が特別な一日になる予感がしたのです。何か重要なことが起こるだろうこと、ちょうど私がはじめて自転車のドロップハンドルに触れた日のような何かが起こるだろうことを、私は悟っていました。
母も同様に何かを感じ取っていたのかもしれません。その日以前、両親は私のレースを観に来ることは一度もありませんでした(主に私の希望によるのですが)。しかしあの日、両親はこっそりとイゾネに応援に駆けつけてきており、そこで私は初勝利を挙げたのです。両腕を高々と上げてゴールラインを通過すると私はすぐに左折し、狭い裏道に自転車で入っていきました。そこで私は喜びの涙を流したのでした。あの瞬間、自転車競技は大変な喜びを得られるスポーツだということを私は確信しました。頑張れば報われると信じて、努力すれば良いだけなのだと。
その数カ月前のことになりますが、アントニオ・フージという、元自転車選手の若い体育教師がメンドリージオに着任していました。アントニオの指導で私はこれまでの練習方法を見直すようになり、勝つことの恐怖を克服する手ほどきを受けていました。モーターペーシング競技(※本ページ下に解説あり)を発見することになったのも、彼のおかげでした。トラック競技において、ヴェロクラブ・メンドリージオとティチーノのスポーツシーンは国内のみならず、全ヨーロッパ及び世界のレベルでも空前の成績を収めることになりましたが、それは何よりもアルフレード・マラネージ(VCメンドリージオ現会長)の情熱と、レンツォ・ボロドーニャ(1970〜2000年VCメンドリージオ会長)による強力なサポートの結果でした。
私達はロッコ・トラヴェッラ、リッキー・ロッシ他、数人のスイス人レーサーたち(いずれもヴェロクラブ・メンドリージオのメンバーです)と共に、オリンピックや数々の世界選手権でいくつかのトラック特殊競技を独占することになりました。
1987年、フージがステイヤーのライセンスを取得してからは、ティチーノの他のコーチ達も彼の後に続こうとしました。彼らは6月にティチーノを出てチューリヒのエリコン(Oerlikon)・ベロドロームに向かいましたが、誰一人ライセンスを得ることはできませんでした(私を含む同行したライダー達は皆テストに合格し、ライセンスを得ましたが…)。
私達ティチーノの人間はそこでとんだ醜態を晒してしまったわけですが、伝説的なスイス人ステイヤー、ウーリー・ルギンビュール (Ueli Luginbühl) が、ロッカールームでシャワーを浴びたばかりの私のところにやって来ました。なんとペーサーとしての彼とペアを組んでいた選手が交通事故で両膝を怪我をしてしまったため、シーズンが終わるまで一緒に走らないかと提案してきたのでした。スイス最高のステイヤー選手が、ほんの数ラップしか走っていないティチーノの無名のライダー(この頃の私はまだまともにドミフォンを走ったことも、観たこともなかったと思います)を気にかけたのは何故だったのでしょうか。
答えはやはり、単純に運命だったのだと思います。その日は私のサイクリング人生全てと、1987年という年、特にその日以降の8週間を忘れがたいものに変えました。60年代に名を馳せたとあるステイヤー選手所有の古い自転車を受け取った後、私は見知らぬ二人のペーサーとモーターペーシング競技の「腕試し」をすることになりました。
最初のレースはチューリヒでしたが、これは雨のため中止。次のレースはバッサーノ・デル・グラッパ(訳注:Bassano del Grappa - カンパニョーロ本社があることで知られるイタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県の基礎自治体)で開催されたコッパ・エウロパ(ヨーロッパ杯)での50kmレース。私はスイス代表として走っていましたが、オートバイがメカトラブルのため45km地点で止まってしまったため残り5kmの単独走を余儀なくされてしまい、一番最後にレースを終えることになってしまいました。
しかしこのレースの後からはルギンビュールがペーサーとなり、私達二人はそのから数年間、切っても切れない黄金のペアになったのでした。
【解説:モーターペーシング競技について】
ドミフォン、ミドルディスタンス、ステイヤーズ等の呼称でも知られる。スリップストリームを生み出すオートバイのペーサー(パイロットとも言う)とそれを追走する自転車選手(ステイヤー)の2人一組がペアとなって行われる競技。40~50kmの走行タイムまたは1時間での走行距離で順位を決する。その歴史は古く19世紀にまで遡る。
ペーサーは競輪等のそれと違い、「選手」という位置付けであった(文中のウーリー・ルギンビュールはステイヤーとしても有名であったが、特にペーサーとしてスイス最高の選手とされていた)。どんなに優れたステイヤーも優れたペーサーなしではレースに勝つのは難しいとされた。
ペーサーのオートバイのバンパーには自転車の前輪接触を考慮してローラーが付いている。自転車のフォークが逆向けに装着されているのはフロントセンターを短縮し、少しでもオートバイに接近することでドラフティング効果を最大化するためと言われている。フロントホイールが小径(主に24インチ)であるのも同様の理由。呼吸を最大化するため、ハンドル位置は高い。サドル位置はBBのそれとほぼかぶり、ハンドルは遠い。ステムとサドルは万一の破損に備え支柱でサポートされている(高剛性化する理由もある)。筆者が主に使用していたギアは64x14Tの組み合わせ。
UCI競技としてのモーターペーシング競技は20年前の1994年の世界選手権が最後となったが、現在でも冬の「6日間レース」の1種目(デルニーレース)として存続している。◀ 1 | 2 | 3 | 4 ▶