しかしその前に、1977年頃に話を戻しましょう。5月下旬の、ある暖かい日曜日のことです。何故そのようなことを思いついたのかはわからないのですが、私はウール製の赤いグローブの指先を切り落として、新しく自転車用のグローブを作りたくて仕方がなくなってしまったのです。そして、そのグローブをはめた瞬間以降、私の人生は永遠に変わることになりました。

その時私の両親は、カッビオ(人口約300人程の小さな町)にいる親戚を訪問するため出かけようとしていました。このグローブをはめると、私は一人前の自転車乗りになった気分でした。そこで私は両親に、自分だけヴァッレ・ディ・ムッジオ(訳注:スイス南部の谷。カッビオはその中にある)に自転車で向かっても良いか伺いを立ててみました。自転車は赤い五段変速のチーロ(訳注:Ciloはスイスの自転車メーカー。1970年代にはReynolds 531を使用した美しいロードレーサーをリリースしていたが、2002年に倒産した)というもので、キャリアと泥除けがついたものでした。驚いたことに、両親は少しも反対しませんでした。当時の交通状況や、道路上での危険は今日のそれと比べると大したものではなかったからでしょう。
写真左:ヴァッレ・ディ・ムッジオ (Valle di Muggio)照りつける太陽の下、私が無事カッビオに到着すると、9歳年上の兄・マルコは私に自転車を買ってやると約束してくれました。なぜ自転車をくれるのかは聞きませんでしたし、兄もなぜそんなことを言ったのかは憶えていないと思いますが、とにかく兄が私に何かをプレゼントしてくれるのははじめてのことでした。そして、そのプレゼントといったら!

兄は約束を守り、一週間後私はついに自分の両手をチーロの青いレース用自転車に置くことになったのでした。お店の人は次のように言って私達に57cmサイズの自転車(今日の53cmに相当)を勧めてきました。「彼はもっと背が伸びるだろうからね。このサイズなら、あと何年か乗っていられるさ。」しかし何故かその日以来、私は背が伸びなくなったような気がします。というか、少なくともみんなが予想したほど背は伸びなかったのでした。とはいえ、何かガッカリしたことがあったとすれば、そのくらいでした。
写真右:兄にプレゼントされたチーロ社のロードレーサーに乗る筆者
自転車の次には、私の姉・シルヴィアがウールのサイクリングウェアをプレゼントしてくれました。白いストライプの入ったグリーンのジャージと、シャモワ・パッド付きの黒いショーツです。6月中旬になって学校が休みになると、私は同級生と一緒にはじめての自転車旅行、メンドリージオとモルコーテの約15kmの往復旅行に出発することになりました。ちなみに彼はたまたま、ティチーノ(訳注:メンドリージオのあるスイス南部の州)出身の元プロ選手の孫でした。
写真左:ルガーノ湖に面したモルコーテ (Morcote)。メンドリージオとモルコーテを往復すると30kmの旅程になるしかし残念なことにこの旅ははじまる前に終わってしまいました。出発前、あるカーブを曲がろうとした時、私が靴修理の店から受け取ってきた姉の靴のヒールがスポークとフォークの間に挟まってしまい、私は自転車から放り出されたのでした。私自身に怪我はありませんでしたが、フォークとスポーク、そして姉の靴のヒールはなくなってしまいました。
その後しばらく経ち、ヴェロクラブ・メンドリージオでレースに参戦していた近所の友達が私をレースの世界へと誘いました。私がはじめて参加したレースは1977年10月、コルドレリオのカンパニョーラ・サーキットで行われたものでした。約40人のレーサー中、私は20位でゴールしました。
右:それから10年後の1987年、ティチーノのロードレースをコルナゴで駆る筆者。このレースでは見事優勝を果たした◀ 1 | 2 | 3 | 4 ▶