これが私の運命だった :
ティチーノの自転車選手が初めて世界選手権のポディウムに立つまで文 アンドレア・ベラチ (Bellati Sport店主)
自転車競技に対する、まるで何かに取り憑かれたかのような私の情熱は、私が12歳の頃(1977年)に始まりました。しかしまだほんの子供にすぎない頃にも、いくつかの兆しがありました。かつて私の注意を神秘的なかたちで惹きつけていた様々な事件や出来事、象徴が、実は疑いようもなく運命的なものであることが、後に明らかになっていったのでした。

私の最も古い記憶は1971年に遡ります。父・エツィオは1971年のメンドリージオ世界選手権組織委員会のメンバーでした。当時私は6歳で、父の黒いVeloSolex(フランス製のモペット)のチャイルドシートに乗せられ、組織委員会本部に連れられていったのを覚えています。
実はその世界選手権のこと自体は、何も覚えていません。というのも、9月初旬になると私の両親は世界選手権の準備にかかりきりになるため、私を山奥の祖母の家に預けてしまったからです。しかしそのレースにまつわる様々な思い出が、私が生まれ育った家のセラー(地下室)の壁を現在でも彩っています。このセラーは今日、ベラチスポーツの倉庫の一つとして使用しています。世界選手権のロゴを纏ったサインボード、レースコースや駐車場の場所が記された詳細な地図、「1971年9月5日」という文字が読めるステッカー。それから43年間が経った現在でも、これらの記号は私の運命を暗示するものとしてそこにあり続けています。

子供の頃の数年間、家の庭で遊んだり、自転車で遊んで喉が渇くと、私はよくセラーに降りていき、そこに保存されていたボトルの水を飲みながら「1971年世界選手権」というデザインロゴをまるで催眠術にかかったように眺めていました。青い楕円の内側に配置された、二人の抽象化されたサイクリスト。それはヴァレーゼ世界トラックレース選手権のロゴでした。その数年前までは、世界ロード・トラックレース選手権は同じ組織団体の傘下で、同じ時期に実施されるのが常でした。しかしメンドリージオにはベロドロームがなかったので、近郊のヴァレーゼ(イタリア・ロンバルディア州)と協力関係を結び、1971年のトラックレース世界選手権はそこで開催される運びとなったのでした。
写真上・右は1971年メンドリージオ開催のUCI世界ロード選手権の様子。この年エディ・メルクスが男子ロードを制した。2着はフェリーチェ・ジモンディ(伊)、3着はシリル・ギマール(仏)であったその後の6年間に、私の感情を揺さぶり、運命を決定付けるような出来事がいくつかありました。中でもメンドリージオ中心部のチルクイート・デッリ・アッシ(Circuito degli Assi)を出発する前、とても痩せたヨーゼフ・フックス(訳注:スイスの自転車選手。1981年リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ優勝)が軽く腹ごしらえをしていた姿を思い出します。彼らチャンピオンを見ていて最も心に残ったのは、彼らのキラキラしたシルクジャージの色彩や、脚に塗ったウォームアップ・オイルに含まれる樟脳の強烈な匂いでした。
もう一つ私の注意を惹いたものがあります。それはロードレーサーに取り付けられた、おもしろいカーブを持つハンドルバーです。生まれてはじめて自転車のハンドルバーに触れた時の記憶を忘れることはないでしょう。それは友達のお兄さんの - ヴェロクラブ・メンドリジオのメンバーで将来を嘱望されていたレーサーでした - 自転車で、彼がテラスでそれはそれは大事に保管していたものです。ほんの一瞬とはいえ、実は私がそれにこっそり触ったことがバレていたら、きっと殺されていたに違いありません! そのドロップハンドルに手を触れた瞬間は、私の人生における転換点だったように思います。私は瞬時に、いつか自分の両手を、ほんの一瞬ではなく、立て続けに数時間ハンドルに置くことになるだろうと悟ったのでした。
左:1987年、VC Mendrisioの選手として133kmのレースを走る若干22歳の著者(0:45〜)。このレースでは2位入賞、「ジャポネーゼ・イローシ」として紹介されている同クラブの大門宏氏(現チームNIPPO-デローザ代表兼監督)は4位入賞を果たす1 | 2 | 3 | 4 ▶