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ちょっと不思議な数字を目撃してしまいました。
サイスポ7月号の27ページの連載【CS EXPRESS】。
7月号の【CS EXPRESS】はスペシャライズドのハイエンドモデルであるS-WORKS TARMACに関する記事です。Textはサイスポ誌編集者氏。
「スペシャライズド東京」で、メディアとユーザを招いて新しいS-WORKS TARMACのプレゼンテーションが行われたのだそうですが、そのプレゼン内容を紹介しています。
要約すると、
〇 「ライダーファースト・エンジアード」(原文まま)というライダー本位の開発方針で、フレームサイズ毎に最適設計を行い、ベストな走行性能を実現している
〇 そのために様々なシチュエーションでの走行試験を行ったが、何を以て最適とするかの基準値はトップシークレットとのこと
〇 520以下のサイズでは後三角の剛性を上げてパワー伝達効率を17%向上。540、560サイズではフロント周りの剛性を向上し、チェーンステーが太くなっており、パワー伝達効率を15%向上。580以上のサイズでは前三角剛性を28%アップし、パワー伝達効率を16%向上した。
です。
何か引っかかりませんでしたか?
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「ライダーファースト・エンジアード」は無論、校正ミスで、「ライダーファースト・エンジニアード」(rider-first engineered) か何かでしょうが、そこではありません。
> 580以上のサイズでは前三角剛性を28%アップし、パワー伝達効率を16%向上した。
例えばここです。この、
> パワー伝達効率を16%向上した。
って、一体どういう意味でしょう。
それを考える前に、ここで使われている
「パワー伝達効率」
の定義を明確にしておかなければなりません。
自転車ハードに関する通常の記事で、何の説明もないままに「パワー伝達効率」という言葉が使われた時、その意味するところは、広く一般的に認識されている、それ、として読者に理解される、ということになるのでしょうが、しかし、この何気なく使っている言葉。恐らく、
「自転車の伝達効率の定義は何ですか?」
と問われて、明確に回答できる方が大多数、というわけではないと思われます。したがって、この手の話をするときには、まず言葉の定義が必要です。
例えば次のように定義する人がいます。
【自転車のパワー伝達効率とは、ライダーが自転車に入力したパワーのうち、実際に自転車を推進させることに使われるパワーの比率の事である】
これはまあまあ明快な定義です。
実際に自転車を推進させるのは、後輪接地面でのタイヤと地面の間の力の受け渡しです。少し具体的に表現すると、ライダーがペダルを通して自転車に400Wの仕事を投入して定速走行するときに現れる後輪タイヤ接地面から地面に伝わる力Fと、その時の走行速度vの積、すなわちF×vが360Wだったとすれば、
360/400=90%
という「パワー伝達効率」になります。
と、ここまでくればかなり明快な定義になります。
これをもう少し分解して具体的な事例で表現すると、ライダーがペダルを通して自転車に投入した400Wのうち7Wがトランスミッション系で殺がれ、残った393Wのうち33Wがタイヤの転がり抵抗で殺がれ、残りの360Wのうち90Wが空力抵抗に殺がれ、残りの270Wが5%勾配の登坂抵抗に殺がれ、その結果として27.7km/hの走行速度が導かれ、以上で投入マンパワーと消費パワーの収支が釣り合うことになる、とか。
一方で、
【自転車のパワー伝達効率とは、ライダーが自転車に入力したパワーのうち、ホイールからタイヤに伝わるパワーの比率の事である】
と定義しても一向に構いません。注意深く読めば、この場合には、上記のタイヤの転がり抵抗33Wは考慮せず、393/400=98.25%
がパワー伝達効率となることを意味していることに気づくはずです。
定義が2つあったら話がすれ違うじゃないか?
とはなりません。話の内容に応じて適切に定義して、その定義をもとに話を進めればよいだけの話で、そうすれば誤解を生まない、というだけのことです。
翻ってサイスポの当該記事。定義があやふやどころが、
「阿吽の呼吸、符丁で語ろう!」
と言われているみたいで、ちょっと気持ち悪い。
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自転車で平地をそれなりの速度で定速走行する場合、人間の投入パワーを殺ぐ最も大きな要因は空力抵抗であり、次が、タイヤの転がり抵抗、その次が、トランスミッション系の損失です。トランスミッション系の損失に関しては、過去レビュー
https://cbnanashi.net/cycle/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=10497&forum=84&post_id=18096#forumpost18096(※残念ながらレビュー中の論文は現在、有料です)
で詳しく扱っていますが、トップレベルの選手たちが勝負を仕掛けるパワー領域での、トランスミッション系の伝達効率は97%以上になるようです。(※ここでいうトランスミッション系の損失とは、クランク軸フリクション、チェンリング~チェン~スプロケに係るしゅう動フリクション、リアハブ軸受けフリクションの各損失を意味しますが、略してギヤ損失と言っても良いでしょう)
結局、自転車の
「パワー伝達効率」
をハイパワー領域で考えれば、『タイヤの転がり抵抗まで考慮した時のパワー伝達効率』は90%程度になることでしょう。となると、
> パワー伝達効率を16%向上した。
というくだりが、奇妙に見えてきます。
記事は、剛性UPでパワー伝達効率を改善しているような記述となっていますから、空力性能UP云々ではなさそうです。
例えば、元々の自転車のパワー伝達効率が90%だと仮定して、それが16%向上するって、どういうことでしょうか? という風に思ってしまうわけです。90+16=106% なのか、それとも、0.9×1.16=104.4% でしょうか。いずれにしても困ったことに、100%を越えてしまいます。まさか、スペシャライズドの旧型フレームが元々とんでもない代物で、何故かフレームだけで20%程度のパワーロスがあったとか?(そんなはずはありません。)
また、ごく素朴に考えても、パワー伝達効率がいきなり16%も向上したら、大変なことになります。今までの自分とは別次元の走りが出来るようになることでしょう。
「雑誌なんてそんなものさ。高価な自転車のオーナーは夢を共有していい気持ちになりたいんだよ。もっと不思議なこと言ってる連中は他にいくらでもいるだろうが。細かいこと言ってんじゃねえよ!」
と言われてしまいそうですね(笑)。
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こういった不思議な表現を見ると、いわゆる
「民間療法」
を連想してしまいます。もちろん、良い「民間療法」ではなくて、能書きに書かれる効能など現実には存在しない、インチキな類の「民間療法」です。
> 580以上のサイズでは前三角剛性を28%アップし、パワー伝達効率を16%向上した。
この能書き、如何なものでしょう。
いえいえ、何かの齟齬があって数値の意味がどこかでメーカーの意図から離れて別の意味を持ってしまい、そのまま独り歩きして「スペシャライズド東京」に届き、迂闊にも原意を離れた形でプレゼンテーションに登場してしまっただけ、に違いないのです。
この手の雑誌が、中立を装いつつも広告のような役割を担っている、というのは今となっては当然であり(実は私が書店で立ち読みし始めた1970年代後半頃のサイスポは全然そんなことはなかった、ということはここではっきり言っておきたいのですが)、メーカーの言い分をそのまま受け売りする事態は、誰もが受け入れていることなのかもしれません。が、それにしても不思議な数値をそのまま流す、というのは如何なものか、と思うわけです。
さらに心配するのは、こういったヘンな数字を、ヘンだと思わないような編集者が記事を書き、その記事に編集長がOKを出している、という状況です。ちょっとオートマチックに過ぎはしないでしょうか。
S-WORKS TARMACが現代の競技用自転車の中でトップクラスに位置することは間違いのないことでしょうが、であるがゆえに、このヘンな数字は勿体ない、と思うわけです。スペシャライズドの開発現場では創造的な発想と議論、計測解析や素材の吟味、これらから得た知見を実車に具現化するための設計行為がアグレッシヴに行われているはずで、そんな深いエンジニアリングの息吹を読者やユーザーにわかりやすく伝える方法論を、スペシャライズドの広報担当者も、中継者であるメディアも持ち合わせていないのかも知れません。
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と、ここまで書いてきて、ずーっと感じていた既視感の原因がわかりました。コレです。
https://cbnanashi.net/cycle/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=4035&forum=84この過去レビューで淡々と一刀両断されている、フリーライターによるサイスポ記事は、まさに今回と同じ類の『事態』です。過去レビューの記事はサイスポによる製品レビューでしたから、深刻度では過去レビューのほうが大、ですが。
多分、今回の件も、上記過去レビューの件も、編集者やフリーライターはあまり深く考えずにメーカーの言い分をなぞっただけなのでしょうが、こういう不思議な数値にすかさず気づいて深堀するような人材が、この手の雑誌の編集者の中にいてくれたらなあ、と思うわけです。そんな編集者なら、斬新な視点で今までにない記事を書くことが出来るに違いありません。
サイスポを読み始めて40年近く経ちますが、サイスポのファンとしてはちょっと、残念ではあります。
価格評価→★★★☆☆
評 価→★★★☆☆ 結局、買う
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追記
CBNの特集記事として2013年夏に執筆させていただいた、【[特集] 自転車の走行抵抗について】
https://cbnanashi.net/cycle/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=10876&forum=120では、自転車の走行抵抗について、9つの章に亘ってかなり詳しく論じています。自転車の走行抵抗の基本的な考え方に関して徹底的に知りたいというかたは、ホビーライダー、自転車開発者を問わず、是非ご一読ください。また第7章で紹介している走行抵抗計算ツール ”RoadLoadSurveyor” も併せて使っていただけると、自転車の走行抵抗に対する理解が一段と深まると思います。
https://cbnanashi.net/cycle/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=11029&forum=120&post_id=19073#forumpost19073”RoadLoadSurveyor”の使用事例をひとつだけご紹介します。
ライダーが300Wを出力しながら5%勾配の登坂路を走る場面を計算します。5つあるシートのうち3つ目の【定パワー走行】シートを使います。ライダー体格や車重などは”RoadLoadSurveyor”のデフォルト値を用いています。ただしギヤは39×22としています。
3つのグラフは、いずれも、自転車に投入されたパワー(注:ライダーが自転車に投入したパワーではなく、単に、自転車に投入されたパワーです)を100%として、それがギヤ損失(トランスミッション損失)、登坂抵抗、空力抵抗、転がり抵抗にそれぞれ何%だけ配分されるかを示しています。
3つのグラフの違いは、風速です。左のグラフは3m/sの向かい風、中央が3m/sの追い風、右が10m/sの追い風の場合です。結果として得られる走行速度はそれぞれ、
19.74km/h、24.98km/h、27.69km/h
となります。
右端のグラフでは空力抵抗が負値となっていますが、これは走行してなお追い風状態であり、「風から自転車にパワーが投入されている」ということを意味します。先ほどの注で、「ライダーが自転車に投入したパワーではなく、自転車に投入されたパワーです」と書いた理由はコレです。