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馬鹿野郎!黙って聞いていればどいつもこいつも理論や法律ばかりを振りかざして、頭でっかちなことばかりを言っているな!!「自転車は自動車よりも交通弱者だから、車道左端を走って後ろに渋滞をつくっても遠慮はいらない」なんてのはあくまで理想論なんだよ!どんなにこちらが法的に過失がなかったとしても、「悪いのは自動車だ!俺に過失はない!」なんてあの世から言っても、それはせんなきことなんだよ!!しかしあまりにも現実と理想が乖離してしまった今の日本の交通状況をみていると、片方だけを罰して解決できるほど事は単純ではなさそうだな・・・
あれは2009年12月9日のことだった。
仕事を終えた俺は、GIOS AIRONEに跨って、家路の途についていた。
「すっかり日が短くなってしまったな。もうすぐ冬至だもんな・・・」
などと思いながら、もうすぐ歩道に上がる路地をゆっくり走っていた。その時である。
衝突したのは、あと10mほどで幹線に出る細い路地の左端。この路地の幅は、小型車どうしの離合がギリギリできるかできないか、といったところだ。相手の自動車は軽自動車で、路地左端を10km/hほどで徐行(もうすぐ歩道に上がるつもりだった)していた俺の方に膨らみつつ左折で入ってきた。20km/hくらいは出ていたと思われる。その膨らみ方は完全にこちら側から見た車道左端をつぶしてしまっており、仮に私が歩行者であったとしても逃げ場はなかったと思われる。
完全に正面衝突であると思われた。左端はガードレールまで完全にふさがれており、避ける隙間はない。右に逃げるのは間に合わない。あっという間に俺は車のバンパー右寄りに衝突し、俺の体は前方空中に投げ出され、昔学校の体育でやった「飛び込み前転」の格好で頭→背中の順で着地した。頭上では、ヘルメットが衝撃を吸収してくれるのを確かに感じた。通勤時だったため背負っていたバックパックが、背中へのダメージを軽減したと思われる。
地面に投げ出された瞬間、体の表側(胸、腹など全面)に、焼けるような激しい痛みを感じた。内臓破裂、という怖ろしい言葉が脳裏をよぎる。俺はここで死ぬのか―――とりあえず、後続車にひかれるおそれがあるので、這いずってガードレールをくぐり歩道に避難した。
軽自動車の運転手が警察&救急車を呼んでいる間、俺は家族に電話で連絡した。間もなく到着した救急車に俺は担ぎこまれ、応急処置を受ける。左足の膝まわりをすりむいて血が出ていた。タイツとひざ丈ズボンは切られてしまった。とりあえず、外傷はそれだけであった。
病院に着くと、レントゲンやらCTスキャンやら触診やらの精密な検査を受けた。この頃になると、自分でもどうやら命に関わる怪我ではないらしいことがわかり、落ち着いてきた。すりむいた左膝以外は、前歯とヘルメットのふちで少しだけ傷付いたおでこが少し痛むくらいだった。この頃、家族が到着。いつになく切羽詰った父の表情と、不安と安堵の入り混じった母の涙は忘れられない。医者からの説明を受け、痛み止めと湿布をもらい、軽自動車の運転手と連絡先を交換して病院を後にした。警察にも話は行っていたのだが、現場検証や当事者ふたりの事情聴取はなぜかなかった。タクシーで自宅へ帰る途中、現場に立ち寄り、自転車を回収。驚くべきことに、ぱっと身は無傷である。しかし動かしてみると、前後輪ともに歪んで回らない状態になっていた。前後輪を取り外し、タクシーのトランクへ。この頃から、左手首と腰に痛みが出てきた。
翌朝、全身の激しい痛み。胸筋、腹筋は激しい筋トレの後のような痛み。想像するに、昨日の「焼けるような激しい痛み」は、事故の瞬間、体がリミッターを振り切った力を出して、オールアウト状態になったのだろう。さらにひどいのは腰だった。曲げても伸ばしても激痛が走る。布団から起き上がることができない。というか、動けない。両親から引っ張り起こしてもらい、ようやく立ち上がることができた。とりあえずこの日は仕事を休み、病院へ。
この後3日間は、自分ひとりでは立つことも座ることも寝ることもままならぬ生活となった。4日目からは、ゆっくりとであれば立ち座りが自分ひとりでできた。しかしまだ寝たり起きたりは人の手を借りなければならない。
一週間ほどたった頃、ふとももを地面と水平近くまで持ち上げられるようになった。―――これでトップチューブがまたげる―――俺はローラー台にセットされたCAAD8にまたがった。不思議なことに、乗車姿勢をとると腰の痛みが消えた。足も回る。110回転まで回して、痛みはなかったが自重した。いつの間にか、俺にとって一番自然で体に負担のない姿勢は自転車に乗っている姿勢になっていたのだ。下ハンはどうだ―――痛いというか、体がこわばって曲がらない。これは無理か。ぼちぼちいこう。でもよかった、これで自転車に乗れる。暗い雲がたちこめていた俺の心に、希望の光が差し込んだ瞬間だった。
相手の保険会社は、極めて良心的に対処してくれた。様々なところで「スキあらば慰謝料の値切りをかけてくる」「ライトをつけてなかったとか、自転車側に不利な状況を捏造しようとする」など、様々な悪評を聞いていたので身構えていたのだが。もちろん事故の苦しみを帳消しにしてくれはしないが、事故の後でも気を煩わせることがなかったのは幸いだった。
○タクシー代
→事故以降、通勤、通院に使ったものすべて領収書を保存。ある程度たまったところで保険会社に送付。
全額が指定された口座に振り込まれた。
○物損
→損害を受けたものを保険会社が送ってきた書式でリストアップ。
自転車、ヘルメット、破れた服、等すべて購入時の金額、全損あつかいで計上(服とかは金額が怪しいものも・・・)。
「金額が証明できる領収書などを用意しておいてください」と言われていたが、
最終的にはチェックされることはなかった。すべて言い値で振り込まれた。
○めがね
→めがねは物損に含まず、「からだの一部」なのだと。
新品を購入し、領収書を送付、その金額が振り込まれた。
大きな声ではいえないが、もとよりちょっといいものになった。
○医療費
→全額相手の負担
○慰謝料
→実はまだ振り込まれていない。治療を継続しているからだ。
さて。事故後1年ちょっとが経過した。その間、だいたい週1回の頻度で通院して、針治療、温熱治療、腰の牽引を行っている。しばらくかがんだ後、体を伸ばすような動き(風呂掃除とか)をすると、少し痛むくらいまで軽減した。完全に違和感がなくなる日を夢見て、コツコツと治療に通うつもりだ。
こうして冷静に事故について振り返ることができるのも大事に至らなかったおかげであると、ひとまずは前向きに考えることにしている。しかし、自分でも不思議なのは、今の俺の心境だ。「ひょっとしたら、俺は事故によって人間的に成熟したのかもしれない」と思うのだ。もし、俺にぶつかった自動車が、すれすれのところですれ違っただけだったとしたら、そのとき俺は「なんて危ない運転をする車なんだ!」と怒っていただろう。ひょっとすると、追いかけていって、窓をコンコンとたたいて「危ないじゃないか!」と文句のひとつくらい言ったかもしれない。しかし、現実には俺はぶつけられて―――すれすれのところですれ違って怖い思いをさせられるよりもはるかにひどい目にあって―――いるにもかかわらず、俺の心には不思議と怒りはないのである。事故にあった直後は、死ぬかもしれないとも思った。家族、友人のことも考えた。やがて、自分の体がどうやら無事であることがわかると、そのときに思ったことは「生きていて本当によかった」ということだった。「病気になって初めて健康の大切さがわかる」とはよく言われることだが、今回のことで俺は身をもってそのことを知ったように思う。健康であること、命あることを当たり前と思わず、感謝の気持ちを忘れず、謙虚に今後の人生を生きて行きたいと思っている。
最後に、ヘルメットの話。
飛び込み前転の衝撃を一手に引き受けて、ヘルメット前側はつぶれてしまった。この衝撃が生身の頭にかかっていたとしたら、今俺は生きてはいないかもしれない。このヘルメットは当然もう使えないが、今でも玄関に飾ってある。毎朝これを見て命の恩人に感謝をするとともに、安全運転で無事帰ってくることを誓うのである。
価格評価→☆☆☆☆☆ (健康はpriceless、至言である)
評 価→★☆☆☆☆(今後に生かすという意味で)