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連載「現場密着!じてんしゃ仕事人」のFile No.12は最終回だ。フリーの自転車ジャーナリスト、菊池武洋氏が取り上げられている。
氏はジャーナリストだそうである。菊池氏が自称しているかどうかは定かではないが、各方面でそう書かれていて否定している風でもないのだから、自称しているのと同じである。
伝聞や憶測で書くのではなく、きちっとした取材を積み重ね、当事者の証言、実物検証など裏付けをとった上で、「事実」をベースに記事を書くのがジャーナリストである。警視庁や県警の記者クラブに詰めて、当局の垂れ流す情報を我先に、とデスクに送るような新聞記者はジャーナリストではない。記者クラブに所属する記者以外は取材できません、などという閉鎖的な仲良しクラブごっこをして平気な連中は当然、ジャーナリストではない。つまり、相手の言い分を鵜呑みにして垂れ流すような連中は、少なくともジャーナリストではないのである。
実は日本を代表するような全国紙上でも、丹念かつ執念深い取材をもとに記事を構築し、報道する、という新聞ジャーナリスト本来の仕事の結果としての記事というものにほとんどお目にかかれなくなっている。これは記者の資質、気質の変化もあろうが、基本的に執拗な調査報道を望まない経営者側の事情も絡んでいると思われる。
かつてのニュースステーションの久米宏は、自身もそう言っていたが「司会者」だった。だから取材はしない。つまりジャーナリストではないし、自称もしてはいない。だれも久米をジャーナリストだとは思っていなかった。そして『いつだって付焼き刃』のテリー伊藤は、もちろん単なるコメンテータ。当然、だれも彼をジャーナリストだなどと思ってはいないし、本人も全くそのつもりはないだろう。それらは全く、それでよいのである。無論、司会者やコメンテータがジャーナリストより下とかいう話ではない。コメンテータはコメンテータとしての役割があり、存在意義がある。ジャーナリストも然り。
一方、「なんたって司会は巨泉」などと自称して、でかい態度が売りだったマルチ司会者の才人、大橋巨泉。だが、しかし氏の発言は時に、気鋭のジャーナリストのような輝きを見せ、こちらは何度も溜飲を下げたものだ。島田紳助に、そんな匂いはかけらもない。
スポーツ・ジャーナリストとしてジャーナリスト然とした活躍を見せている身近な例としては、二宮清純氏、スポーツ・コメンテータならば玉木正之氏を私は挙げたい。二宮氏は自分自身の強力な行動力と取材力を基盤とした上で、旧態依然としたものや教条主義的なもの、既得権益、スポーツそのものの面白みを殺ぐような小狡い采配や組織などへの問題意識を基軸とした批評的・建設的な執筆や発言を行なっている。何かに媚びることはない。これはジャーナリストである。ただし、スーパー・ドライのCMに出ていたのはご愛嬌か。一方、玉木氏の、スポーツ本来の持つ意味から深く論考、考察した上での発言は、聴くものに思考を強い、覚醒へと導く。これこそ優れたコメンテータである。
さてここからが本題だ。菊池氏はジャーナリストである。したがって間違ってもどこかのメーカーや誰かの太鼓持ちのような記事を書くことはあってはならない。なぜならそれは、ジャーナリストとして自殺行為でしかないからだ。
たとえば、CS誌11月号「自転車バカ!一台」である。これが果たしてジャーナリストの記事といえようか?単なる広告にしかなっていない。こんな太鼓持ち記事を書くようなライターは、ライターと呼ばれることはあっても、ジャーナリストと呼ばれることは、あってはならない。(無論、太鼓持ち記事など書かない、立派で優れた「ライター」も存在する)
そして、CS誌で定番となって久しい菊池氏のロードバイク・インプレだが、菊池氏にはロードバイク・インプレは不向きである。
例えば2006年3月号のCampagnolo BORA ULTRAのインプレで、「ディープリムでフロントが600gを切っちゃう。ロ-プロファイルリムのホイールでも、ボーラより軽いホイールを探すのは難しい。そんなわけでディープだから平地用とは言えないし、実際にプロでもヒルクライムTTで使う選手が多い」と菊池は評している。「そんなわけで」などと繋ぐことで、ホイールは軽ければヒルクライムで有利であると言ってしまっているのだが、一体「そんなわけ」とは、どんな訳なのか。ホイールが軽いことがヒルクライムでどれほど正義なのか、実証したことがあるのだろうか。例えばヒルクライムにおいて、ホイールが30g軽いことと、フレームが30g軽いことの差異はあるのだろうか?などと言った疑問には、今まで一切答えていないのではないか。否、答える必要性に気づいていないだけかもしれない。
同じくCampagnolo EURUSでは、「・・・新しいスポークを採用することで反応性を上げてきた・・・」と言っている。ここではスポークが強化されたことで反応性が上がったと言っているのだが、「反応性」とは何だろうか。ホイール関連部材の弾性が関与する性能スペックなのであろうか?一度、しっかりと定義していただきたい言葉であるが、どうやら読者が阿吽の呼吸で理解するべき言葉のようである。
2006年4月号では、RIDLEY NOAHに対して「剛性感に強く影響する部分は強化し、そうじゃない部分は出来るだけ軽くしてある。」とCNC加工されたリヤエンドのセールストークをそのまま流している。CNC加工で落とされた部分は直角に肉抜きされていていかにも応力が集中しそうに見えるが、これで適切に軽量化されている、と言える理由は何か?
同じくDE ROSA Protosでは「・・・昔はキレイなペダリングの人にしか良さがわからない気難しさがあったけど、キング以降は懐が深くなって乗りやすくなった。」とある。「気難しさ」の正体はいったい何なのか。符丁で語るインプレここに極まれり、である。私は、菊池が一体何を言っているのか、皆目わからないのだが、これでわかった気になる読者がいて、そしてショップでは、「にわか評論家」たちの符丁で紡ぐ会話が盛り上がるのだろう。
遡って2005年1月号。COLNAGO C50では、「・・・慣れてしまえばニュートラルなんだけど、ハンドリングにクセがある。それがコルナゴらしさなんだろうけど。」ちなみに日本向けのシートサイズ450から570mmまでの10サイズのジオメトリ表のなかでフォークオフセットはすべて43mmで一定である。こんな不思議な数値を見続けてきて、今ではすっかり慣れてしまって私などは感覚が麻痺してしまったが、実は、これはかなり異様である。身長181cmの菊池なら、570mmあたりを選択して、それこそまともなハンドリングを得られるだろうが、さて、シートサイズ450mmで43mmのフォークオフセットの自転車のハンドリングはどうなってしまうのだろうか?そんなことはどうだっていいのか、それとも触れてはいけない、カーボン全盛のご時世の「業界御法度マター」なのか?未熟で無知な私のために解説していただきたいものである。
例をあげたらそれこそキリがなく虚しくなるのでやめるが、全体を通して流れる通奏低音は、「何となくそんな気がする、そう言っておけば間違いないだろう、というオートマチックな思考」なのである。
先ほど、菊池氏にはロードバイク・インプレは不向きである。と、「菊池氏には」、という限定の助詞を使ったが、実はそうではなく、ロードバイク・インプレの分野で自転車メディア業界にきちっとした言語化能力を有するライター人材が極端に不足しているのだ。その意味では、相対的には菊池氏はマシなほうかもしれない。
一方、インプレするために自転車に乗る人材は豊富だ。高橋松吉、森幸春、市川雅敏、三浦恭資など、ファンが熱狂的な声援を送りたくなるような積極的な走りをした錚々たるロードマンが存在する。限界の走りを知っている彼らは、新たなマシンから恐らく多くの情報を感じ取ることができるだろう。彼らがその役割を受諾してくれるかどうかはまた、別の話だが。それにしても想うのは、彼らの全盛期が今だったら一体、どうなっただろうか?ということだ。余談だが・・・。
だがしかし彼らは、論文を何本も書いている材料力学や航空力学などの工学博士ではなく、どちらかというと格闘家でありアーティストである。そんな彼らのインプレをどうにかして的確に文章化し、さらにそれを裏付けるテスト、実験、検証を提案・推進し、しかもそれらの結果を一般向けにわかりやすく翻訳する能力がなければ、ロードバイク・インプレのライターは本来、務まらない。それができなければ、あらゆる形容詞を駆使した怪しげな文章で装飾・偽装するしかなくなるのである。菊池氏に欠けているものが何か?それを菊池氏自身が分析し、その上で有能なインプレ・ライターを発見してこの際、ロードバイク・インプレの道を譲っては如何だろうか。
誰が聴いてもそれなりに違いがわかるスピーカやアナログレコードのカートリッジならまだしも、記録メディアのCD-Rにまで領域を拡げて、聴こえもしない差異を、多彩な形容詞を駆使して大げさに解説して恥じないし、不可解なバイアスを文章から読み取ることができるような粗悪なオーディオ評論家。無論、それらには、メーカによるご丁寧な接待を受けている、という事情も絡んでいる。某・真正オーディオ・メーカーの開発責任者と話をすれば、私の問い「結局、メーカーの影響を受けていない評論家は某氏ってことですかね?」に対して「まあ、そういうことになってしまうんですよね。。。」である。
粗悪な重鎮オーディオ評論家の言説に操られ、試聴したことすらない各社のアンプの音色の違いを、あたかも「オレは解っている」とばかりに説明して止まないオーディオ・マニアというのは少なからず存在する。そんな中に穏やかに割って入って、「このスピーカ、上のEあたりにずいぶんピークがありますね」など符丁をこわすような指摘をすれば、オーディオ店の重鎮社員は妙に気色ばむ。秋葉原のヤマギワあたりに行って高額オーディオの前にいる客と店員の話を聴いてみるがよい。操られた客と店員が仲良く「評論家ごっこ」を楽しんでいる。ロードバイクの世界にも悲しいかな、この傾向が見られるのではないか?
ロードバイク・インプレのライターはジャーナリストである必要はない。ロードバイク・インプレのライターとしての資質があれば、それだけで十二分に評価され、高額の原稿料を手にすることができるはずである。
私は菊池氏に期待する。ジャーナリストであるというのならジャーナリストとして、何を基軸とするのか?どこを守備範囲にするのか?何を訴えていくのか?再考した上で、自分の立ち位置を明確化してはいかがだろうか? 例えば、自転車競技界で古くから蔓延していて、しかも懲りない、呆れるしかないドーピング問題に関して、徹底取材して連載してみるなどというのは如何だろうか。バッソやリースにも周到かつ巧妙に取材を仕掛けるのだ。自転車競技にとってドーピングとは一体何なのか?それこそ自転車ジャーナリストとしてその名を轟かせるような一大仕事となろう。CS誌がそんな地味な連載など不要だ、というのなら別のメディアに売り込めばよい。必ずどこかが名乗りを挙げるだろう。
文才十分で行動力抜群の菊地氏がこのままロードバイク・インプレの世界で不完全燃焼し続けるのはもったいない話である。菊池氏ならその気になれば、ジャーナリスト的観点から世界を引っ張っていく存在になり、日本のロード界が世界に飛翔するひとつの土台にもなりうると信じている。菊地氏には真正のジャーナリストとしてロード界を牽引していく覚悟を持ってほしい。もしかしたら世界のスポーツ・ジャーナリストが驚くような仕事を成し遂げるかも知れない、と期待を込めて、憎まれ口を終えることにする。
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